街のバグを見つけて歩く

街を歩く人のために

はじめに

街を歩くことが好きだ。
カントみたいに、「毎日決まった時間に正確に」というわけではないけれど、その日の気分でルートを決めて歩く。

私は大学進学を機に上京し、東京に住み始めた。
実家は、海と川が歩いて行ける距離にあって、それだけ言うととても良い感じなんだけど、街灯がほとんど無くて夜に外を歩くには暗すぎる、昼間は学校がある、少し遠いところに行くときは必ず車を使う、といった感じで、街を歩く機会が少なかった。
今は、毎日のように一人だったり友達とだったり、とにかく街を歩いている。

散歩するときの言葉

散歩について考えるときに、勝手に編み出した言葉とか、概念みたいなものがいくつかある。他に使っている人がどのくらいいるのかは知らない。

・散歩ビリティ
散歩+-ability(接尾語)、散歩可能性。散歩しがいのある街かどうか、っていう主観的な言葉。「あそこは散歩ビリティが高い街だ」という風に使う。少なくとも東京は街によって散歩ビリティに差があるような気がしていて、散歩ビリティの高い街は歩いていて楽しい。

・セーブポイント
どんなに楽しい散歩でも、歩くと疲れるから休憩が必要だ。コンビニや、公園、道端に唐突にあるベンチ、河川敷など、その時々で最適な休憩ポイント=セーブポイントがある。メガネをかけている人なら、眼鏡屋さんの前によくある、眼鏡を振動で綺麗にするやつを使って数分休憩するのもあり。

お前はコッペパンじゃないよ〜
星のめちゃくちゃ綺麗な日に落ちていたねこ

赤瀬川原平と路上観察の話

私の大好きな芸術家に、赤瀬川原平という人物がいる。彼がトマソンの概念を発見し、命名したのが1972年。トマソンとは、「建築物に付着して美しく保存されている無用の長物となった部分」のことを指す言葉である。

始まりは、街を歩いていた赤瀬川が、どこに続いているでもない、ただ上がって下がるだけの階段を発見し四谷の「純粋階段」と命名したこと。彼は、「純粋階段」のような、本来の目的を失い不要の長物となった街の建築物に

【芸術のように実社会にまるで役に立たないのに芸術のように大事に保存されあたかも美しく展示されているかのようなたたずまいを持っているもの】
【それでありながら作品と思って造った者すら居ない点で芸術よりも芸術らしい存在=「超芸術」】

という概念を与えた。

超芸術トマソンの例

・無用階段(純粋階段)

上がった先/下がった先に目的地がなく、どこにもつながっていない、「高さの違う場所を移動する」という本来の目的を失っている階段。

・無用庇

覆っている窓が塗り込められて、日差しや雨を防ぐ目的を失った庇。

・原爆タイプ

建築物の壁に、取り壊された隣家の跡が残っている状態。原爆が投下された時に、建物に人の影が焼きついた、という話からきている。

トタンの色がポップな原爆タイプ

・阿部定

木や電信柱が途中で切断されて、根元の部分がそのまま残されているもの。
阿部定事件に着想を得ている。

公園で見つけた阿部定
阿部定、子供達に人気

その後、赤瀬川を中心とし、建築家、美術家、編集者、収集家など多様なメンバーが集まり、路上観察学会という学会が生まれた。路上観察とは、通常、「路上の景観としてみなされないようなもの=ex.先に挙げたようなトマソン、マンホールの蓋、張り紙、看板など」に注目して路上を観察することを指す。

街のバグ

私はトマソンや路上観察の考え方がとても好きだ。
けれど、トマソンを探して散歩すればいいじゃん、と言いたいわけじゃない。

街を歩くと、そこに見える景色が、効率的で計算されたものだけじゃないことに気づく。トマソンしかり、玄関先の園芸が道にはみ出しかけていたり、誰かの落としたであろう手袋が、別の誰かによってガードレールに引っ掛けられていたりとかもそうだ。なぜか野菜が落ちていることもあるし、パンが落ちているのもよく見る。綺麗に整備された状態から逸脱した(=バグった)風景は、案外いろんなところに潜んでいる。
そういった「街のバグ」を笑って許す、路上観察の根幹はそこにあると思っていて、私はその優しさが好きなのだ。

「墨東日記」というライター・イン・レジデンス(ライターが一定期間滞在して、記事を書く)の企画に参加した。墨田区はバグがかなり多い街だと思う。

墨田区にバグが多い理由を、二つ考えてみた。
一つには、築年数の古い木造長屋や、長く続く工場など、昔からある建物がたくさん残っている一方で、スカイツリーや高層マンションができたりと新しい建物がどんどん建っていて、時代の違う二つの建物が混在していること。
もう一つは、路上園芸花見の記事でも挙げたように、街の空間における公私の境目が曖昧なこと。「私」の部分が「公」の場に持ち出されることで、バグの状態としてみなされることがあるんじゃないかと思う。

パンが落ちている
ガードレールに引っ掛けられた帽子

墨田区で気になったのが、住所が書いてる札?のフリーダムさ。
一瞬違う世界線に来ちゃったかな?って不安になる。

埋まってる
落ちてる

孤立の群れに安息を見出す

気候の良い時に光の落ちている場所を探し歩いて、疲れたら適当にガードレールでも、カフェでも、河川敷でも座れる場所を探す。そうやってセーブしたら、また歩いて、本当にクタクタになるちょっと前に解散する。

あるいは夜、寒すぎないような日に、写真を撮るのもほどほどに、川岸の鉄橋の下で、朝が来るのを待つ。真夜中でも、線路の上を貨物列車か点検用の電車が走っていることを知ったりして、気づいたら始発が出ている時間になって、嘘みたいな朝焼けを見る。そして、何かすごいものを見たぞ、という気持ちになりながら駅まで歩く。

歩いていると、知らないことをいっぱい知る。知ってしまう。街で見る小さなバグや、夜中に動いている色々な人や物事は、ただ知らなかっただけで毎日その街で繰り返されている日常だ。
私たちが、それに対してどういう感情を持ったとしても、街は続いていく。

それは少し孤独なことだな、と思う。
触れられない、選択しなかった可能性の日常がばかりがそこにあるからだ。

レベッカソルニットの「ウォークス 歩くことの精神史」の中に、こういう一節がある。

《遊歩者が出現するのは、19世紀の初頭、都市が巨大で複雑なものとなり、住人にとってさえ見慣れぬ存在となるという未曾有の時代のことだった》

そしてこう続く。

《互いを見知ることのないままに生きるおびただしい数の他人同士。遊歩者はいわばこの孤立の群れに安息を見出す新しいタイプとして出現した。》

私は街を歩く時の孤独のことが結構好きだ。別に一人だから寂しいとか、誰かといれば楽しいとかそういう話じゃない。 街のバグも、知らなかった何かも、全部、ありえたかもしれない、ありえるかもしれない可能性だ。それを笑って受け入れたり、許したりする手段を持つことで、孤立の群れの一人として、自分の中にただ続いていく暮らしをちょっと優しい気持ちで受け入れることができるんじゃないかと思っている。

まあ、言いたいことは、ちょっと優しい気持ちで街を歩いてみようぜ!ってことです。
どんな街もきっと私たちを拒絶しないよ。

参考にした本など
『ウォークス 歩くことの精神史』 左右社
『日常的実践のポイエティーク』 ポリロゴス叢書
『路上観察学入門』 ちくま文庫 
『芸術原論』 岩波現代文庫
『路上と観察をめぐる表現史 考現学の「現在」』フィルムアート社

渋いギャル twitter:@iroha1221